RICCO(立体交差点)

100%の反テキストサイト/見ただけで射精させるから書きながら勃起する

なぜ立体交差点か?

RICCO(立体交差点)という集団ブログを作りました。主宰のペレストロイカ岸本です。
 
元々は2人で作ろうとしたナンセンス・反テキストサイトでした。それをより厳格に
 
①書き手は書きながら勃起出来ること
②読み手が見ただけで射精出来る文を書くこと
 
というコンセプトを掲げ、書いてくれそうな人を7人集めてはじめました。
 
(誘いたい人は他にもいましたがコンセプトがコンセプトなので変態扱いされそう。いくつか記事を世に出してから誘おうという結論に至りました)
 
挨拶としてなぜ立体交差点か、なぜこのメンバーか、なぜ反テキストサイトかを語らせてください。
 

 

なぜ立体交差点か?
 
この世で一番エッチなものは何か、メンバーとラインしている時にこんな発言が出ました。原文をそのまま引用します。
 

”コンテクストを無視して考えたとき(当たり前の話なんですが)立体交差点というのは単に三次元での交わる点を意味する。それって凄くエロいですよね。一番セックスを客観的に現している。ネトラレをセックスの俯瞰と定義するならば立体交差点は言葉のネトラレなんですよ。セックスという単語にしても、和姦という言葉にしても、それぞれにニュアンスで味付けがなされてしまっている。しかし立体交差点という言葉にはそれがない。なぜならセックスを表す言葉として使用されていないから。ある意味言葉のヌードなんですよ。AVで見る裸よりも、映画で見る裸の方がエロいですよね。それと同じです。”

 

文体がロキノン調になってるのはその時のノリなので堪忍してください。 
 
僕は読んだとき正直シビれました。勃起なきエロというか、猥褻とかそういったところから距離を置いてエロティシズムやフェティシズムを語っている。熱があって、彼自身はエロとは関係のない語るという行為を通じて彼が勃起してるように感じて僕も勃起しました。
 
<ボケーツッコミ>だけで構成される単純喜劇的テキストでもなく、学問を便利な暴力として振り回しているわけでもない。熱がエネルギーを持つということがこんなにも面白いのかと。そうした文が集まるサイトとして「立体交差点」という単語をサイトの象徴にすることにしました。
 

 

なぜこのメンバーか?
 
僕は全員と直接会ったことがあり、全員ほんとうに面白いです。同時にクラスや学部の中にいると「変」だと言われるような人たちでもあるとも思いました。
 
しかし僕は「変」という言葉が一番嫌いです。つまらなさも逆説的に面白さに含まれるとしたら面白いの対極にあるのは「つまらない」ではありません。「面白い」の反対は「変」と表現された諸事象ではないかと。
 
たとえば人について説明するときに、バンドをやっている、大酒飲み、語学マニア、ゲイ、陰気、意識高い系など様々な単語で人を形容できますが、「変」だけは別の意味合いを持つと思うのです。
 
ベトナム語を勉強していて昆虫を食べる変なやつ、隣に住むうつ病のババアに強姦されて京大大学院に通う変なやつ、留年してスーツを着ずに広告代理店から内定をもらった変なやつ、ナメクジに自分の精液飲ませて育ててた変なやつ、レズの変なやつ、会社の規則でピアス禁止やのに鼻ピアス空けて毎日マスクで通勤してるWEBデザイナーの変なやつ…etcと、「変」なやつとなった瞬間に対等なはずの形容詞句に序列が生まれてしまいます。つまり、すべてが変なやつであることを補強するエピソードに堕してしまうのです。
 
タイ語には高子音字、中子音字、低子音字という3種類のクラスがあります。子音字と母音記号によってタイ語の音が決まるのですが、発音は子音字のクラスによって左右されます。ここで問題となるのは二重子音。高子音字と低子音字の組み合わせ・高子音字と中子音字の組み合わせの二重子音はどのクラスに分類されるでしょうか?
 
答えは高子音字です。厳密には先に来た子音のクラスが二重子音のクラスになるのですが、これって「変」という形容詞が持つ効果と似ていませんか。「変」というクラスのもとで本来とは別の役割になった他の形容詞はどうなるんやと。僕は「変」を壊したい。
 
大喜利でたとえましょう。
 
大喜利とは何かお題があって、それに対して当意即妙な回答をするところに面白みがあるはずです。
 
お題に対して論理的にもテキスト的にも練られた、いわば誰が言っても一定の面白さがある回答とは真逆の様式に◯◯な自分だからこそ言える個人的な回答があります。その人にしか言えないような一言をワイプに抜かれるようにピシャッと言うことで、その人にしか出せない良さが出る。
 
しかし変なやつの場合はどうか。変なやつが変なやつの枠に当てはまって変なやつとして期待されていることを言うことにはなんの面白みもない。むしろ変なやつの枠で「変」であることを再生産しても緊張感のない程度の低い自己模倣に終始するでしょう。
 
なぜこうしたことが起こるのか。
 
そもそも「変」というのは定まった表現のできない事象の仮の総称であります。にもかかわらずそこに定位置を与えようとすると収拾がつかず、自滅してしまう。だから「変」であり続けること、いや「変」だと見られ続けることの先には決していい未来はないのです。
 
「変」ではなく僕らが僕らやからおもろいんとちゃうんか、それを完遂できる熱量があるのが僕らなんとちゃうんか。そういう人を集めました。
 
ゆえにこのブログ・RICCO(立体交差点)に属する私たちはRICCO的であることを望んではいません。あくまで語れる者で維持していく「淀み」みたいなもので、むしろ「RICCO的である」ということはない、を目指します。
 

 

なぜ反・テキストサイトか?
 
めちゃくちゃアバンギャルドな触れ込みですが、そんな大層なことではありません。
 
WEBの世界では「テキストサイト」という大きな流れがあって、今もそれを継いだ大きなサイトがあります。けど、僕はあまり好きではない。強くボケることと強くツッこむことが前提となっているようで、一つの文章でボケとツッコミが目まぐるしく移動するのが忙しい。
 
そうした火を放って暖を取るの文章ではなく、時間をかけてバッテリー部分を熱くさせるような方が好みなんです。リチウムイオンバッテリーは熱くなると膨らみますが、そこから長々と語ってその熱で面白さを感じさせるのを「書きながら勃起できる文章」と呼んでいます。その意味での反テキストサイトです。
 
もはや全盛期を過ぎて爛熟期にあるテキストサイトには粗さの中の面白さは徐々になくなっているようにも思います。各人にベテランとしての技巧が備わり、新規参入を許さない雰囲気さえあります。かといって商業メディアのような真面目の中にちょっとして面白さを”混ぜ込む”という人工的な面白さにも興味はない。
 
となると、自分たちで作るしかないんですよね。
 
手始めに持ち合わせのエピソードを消化しながら、各人で勃起したいと思います。
 
(文・ペレストロイカ岸本)